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親の過保護により東大に入った人間の末路-Part2-【人となり】

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親の過保護により東大に入った人間の末路-Part1-【イントロダクション】

僕は幼い頃から親に大切に育てられた。

一人っ子というのもあったのだろう。

親にとって大事な一人息子。

絶対に僕の人生を幸せにしたいという思いが親にはあっただろうし、それを僕も感じていた。

だからこそ僕は一生懸命それに答えようと努力してきたし、それが親孝行になると思っていた。そして実際に親孝行にはなったと思う。

僕は小さい頃から賢かったらしい。

3歳の頃には友達の母親に自分の家までの地図を見せて説明し、驚かせていたらしい。

ごく一般的な大学を卒業した親にとってはすでに自慢の息子であっただろう。

他にも企業のロゴを異様に覚えていたり、文字を覚えるのも早かったそう。

そして、僕は小学4年生の頃SAPIXという中学受験塾に入った。

(SAPIXというのは中学受験塾の中で最もレベルが高く、開成、筑駒、桜蔭などの名門中学校合格者を多数輩出している塾である。)

 

あの頃の親はとにかく必死だった。

僕を絶対に開成などの名門校にいれようと努力していた。

授業でわからないことがあったらとにかく先生のところに質問に行かせようとした。

でも僕は1回しか質問に行かなかった。

 

今でこそコミュ障と言っているが、僕は小学生の頃からコミュ障だったのかもしれない。

先生には絶対に聞きにいきたくなかった。

今だったら聞きにいくことはできるくらいの精神だが、進んで聞きにいきたくはない。

これはコミュ障なのか人見知りなのかはたまた頑固なのかはわからない。

おそらくどれも完璧に僕の性格を言い表せる言葉ではないし、どれも僕の性格の一部分を確実に表しているのだと思う。

 

親の期待には答えようとしてはいたが、質問に行かなかったというのは親不孝だったかもしれない。

とにかく僕はわからないことがあっても先生に質問することはなく、かといって頑張って勉強しているわけでもなかったので第一志望校には普通に落ちた。

結局第二志望の中学も落ちて僕は第三志望の中学に通うことになった。

 

入学当初はなぜ僕がこんなクソみたいな学校に通わなくてはならないのかとイライラしていたが、知らない間に中学校に馴染んでいった。

そして迎えた最初の中間テスト。

正直どのくらい頑張れば良いのかわからないので、割と頑張った。

すると1学年250人程度いる中で僕は4位になった。

4位/250人中というのはすごいと我ながら思ったが、第三志望で泣く泣く入ったのでそれはそうかと我に返った。

 

そして、この中学・高校は結構教育熱心なのであった。

先生方は東大に行かせようと躍起になっているし、毎年数人東大合格者は出ていた。

そんな実績と僕の成績を照らし合わせると、僕は東大合格圏内にいるということがわかった。

だから親も喜び、僕に勉強させた。

僕も先生に怒られたくないから宿題をやるし、勉強以外にこれといって趣味もないし(勉強が好きというわけではない)、せっかくの良い順位はキープしたいという思いもあり、中高一貫校の中学1年生にしてはめずらしく1日2時間くらいは勉強していた。

 

そこから中学高校と多少の成績のアップダウンはあったものの割と上位の成績をキープし続け、僕は無事東大に合格した。

ちなみに、この6年間で僕が得たものは東大合格以外には何もない。

他の人が中高6年間で恋愛や部活や友情など人間としてのベースを育んでいる頃に、僕は勉強しか得るものがなかった。

みなさんはこのような中高6年間をどう思うだろうか。

 

本人としては盲目的に勉強していた中高6年間の間は何も感じることはなかった。

周りに恋愛をしている人はちらほらいたが、別に羨ましくはなかった。

東大に入ったらモテるし、今彼女を作らなくても良いだろう。

このような驕りがあったから当時は大丈夫だったが、今この現状を踏まえて過去を振り返ると絶望的な気分になる。

 

僕が悔やんでいるのは中学高校時代に恋愛ができなかったことということではなく、この期間に人間になれなかったことだ。

中学高校の人間としての自我が形成される時期に、勉強という無機質なものに没頭してしまい、さらに人間としての自己を見つめなかったことで、僕は人間というよりもむしろ、計算機に近い人間になっていた。

 

今の僕を一言で表すならそう、

無機質

これに尽きる。

 

今の僕には人間性が圧倒的に欠落している。

感情を抜きにして全て論理的に考えてしまう。

たしかに論理的な思考をすることが役に立つ場面は多々ある。

ただ、人間が人間として楽しくいきていくために必要なものは論理的思考能力ではない。

僕には人間を人間たらしめる決定的な何かが欠落している。

 

最近、ようやく自分の中に人間らしさが芽生えてきた。

めまぐるしく変わるこの時代の中でどのような人間像がこれから求められていくか考えていたところ、偶然にも「人間らしさの価値」というものに気がついてしまった。

そのことに偶然気付いてしまい、突如人間らしさを獲得し始めたが、すでに身体精神共にある程度確立していて、さらにその精神は極めて無機的なものであった時、人はどのような感情を抱くだろうか。

それは後悔、絶望である。

そしてそれが今の僕の状態なのである。

 

僕は勉強を否定する気は全くない。勉強は論理的な思考能力を鍛えるための良い手段であるし(最適とは言わないが)、その能力が人間にとって必要であり、それが社会・文明を推し進めてきたことは確かだ。

しかし、社会を変えることだけが人間一人一人の目標ではない。

人間らしく生き、自分の幸福を追求することが全ての人間が持っている目標なのではないか。

 

僕は中学高校時代に論理的思考力のみを発達させ、人間らしさを完全に失っていた。

今となっては自分にとって何が幸福かなんてわからない。

そもそも、自分の人間らしい感情的な部分が全く見つからない。

客観的な事象に対する適切な判断をすることには長けていても、主観的な世界への素直な感触を味わうことができなくなっている。

今後の人生で僕は人間らしさを獲得することができるのだろうか。

 

深夜にこのような感情を発露していくことでもし人間性を獲得していくことができるのならそれが幸いである。

論理だけが取り柄の人間が支離滅裂に、必死に感情を取り戻そうと努力した結果がこの文章である。

 

親の過保護により東大に入った人間の末路-Part3-【初めて出会った人間】


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